寺尾聰の【ルビーの指環】は大病から生まれていた!?

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寺尾聰さんのヒット曲「ルビーの指環」は当時34万枚の大ヒットを記録し、その年のレコード大賞を受賞。

そんな「ルビーの指環」ですが、実は、大病からうまれた名曲であることをご存知でしたか?

オリコン調べによると、「ルビーの指環」は、寺尾聰さんのシングルで最大の売上を記録。
ヨコハマタイヤ(横浜ゴム)『ASPEC』のCMソングとなり、翌1982年春開催の第54回選抜高等学校野球大会の入場行進曲にも採用されていますし、2006年にはキリン『ラガー』のCMソングにも使われたほどの名曲です。
そして「ルビーの指環」がヒットした後に建てられた溜池山王の東芝EMIのビルは「寺尾ビル」の異名を取っているそうですよ。
ここでは、そんな「ルビーの指環」が大病の末に生まれた経緯について調べてみました。

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もともとは俳優だった

寺尾聰さんのお父さまは名優・宇野重吉さん。

寺尾聰さんはもともと俳優として、石原軍団に所属していました。

確かに、ルビーの指輪で一斉を風靡した頃は歌手としての寺尾聰さんしか知らなかったのですが、ここ数年はエイアやドラマで活躍さなさってますもんね。

石原軍団と言えば西部警察!

なんだか寺尾聰さんが石原軍団とはピンとこないのですが(*^^*)

当初、お父様の宇野重吉氏の主宰する劇団民藝に一研修生として入団を希望していたのでだそうです。

ところが、お父様本人から「たとえ研修生扱いでもマスコミは『親の七光り』として見るだろう」という理由で、宇野重吉氏と懇意だった石原裕次郎氏を紹介され、石原軍団入りしたのんだそうです。

大病とは?

石原プロで俳優として活動していた29歳の時に、胃に穴が開く潰瘍穿孔(かいようせんこう)を患ったこと。
4日間意識不明になり、体重が20キロ以上も減ったそうです。

普段過ごしている時に急に胃に激痛が走り動けなくなったそうで、自分で救急車を呼び、救急車が来るまでシャワーを浴びて待っていたとか(笑)。

意外にこういう時って、冷静になれるものかもしれませんね。

予断ですが、私の友人は陣痛の激痛の中、数日はお風呂に入れないだろうから、とシャワーを浴びて病院に到着したころには、子宮口全開だった!みたいな出産体験をした人もいるほどです。

胃潰瘍穿孔(いかいようせんこう)とは?

急激に潰瘍(かいよう)が発生、あるいは以前に潰瘍(かいよう)があった部位の憎悪が原因で、傷が深くなって胃壁や十二指腸壁に完全に穴があいてしまうこと。これを潰瘍穿孔(せんこうかいよう)といい、早急に入院し、24時間以内に手術をしないと、腹膜炎を起こし、生命にもかかわる重大な病気です。

この病気の手術で、胃の80%を以上を切除した寺尾聰さんは、体重も体力も戻らなくて仕事をセーブするしかなく、「これで(俳優を)辞めるのかな」と覚悟なさったそうです。

こんなお経みたいな曲が売れるわけがない?!

手術を終えた後のリハビリ中に「何か食うために、収入を得ないと」と思いたち、かつて作っていた楽曲をカセットテープにまとめて、レコード会社に売り込みました。

そして、その中に「ルビーの指環」がはいっていたんです。

ところが最初は、この「ルビーの指環」がこれほど売れるとは誰も予測していなくて、石原プロモーションの関係者に聴いてもらったところ、小林正彦専務は「こんなお経みたいな曲が売れるわけがない」と難色を示したとか。

ただ、当時の社長、石原裕次郎氏の「いいじゃないの」の一言でレコード化が決定して、これだけのヒット曲につながったというのですから、最初の時点で却下されていたら、ルビーの指環という曲も、寺尾聰さんもこれほど知られる存在にはならなかったのでしょうね。

確かにお経とまでは行かなくても、メリハリのある曲でもありませんし、別れた彼女が忘れられないという、寂しいというより暗い感じの歌詞でもありますしね。

発売当初は、予測どおりさほど売れていなかったのですが、発売から約1ヶ月程経った後から徐々に売上を伸ばしていきました。

そして、同年3月30日付のオリコンシングルチャートで寺尾聰さん初の1位を獲得。

同時期に、TBS系『ザ・ベストテン』という人気の歌番組で1位を記録し、12週連続1位という同番組の最長記録を樹立。

この記録は放送終了まで破られることはありませんでした。ま

た、連続1位の最長記録が更新されるたびに、『ザ・ベストテン』からはプレゼントが贈られていたのですが、このことは、同番組の総集編やスペシャル放送などで、話題の一つとして必ず触れられているほどです。

同じく当時人気だった歌番組、日本テレビ系『ザ・トップテン』では、放送第1回の第1位と10週連続1位という番組の最長記録も樹立しています。

「ルビーの指環」は、シングル5番目の曲なのですが、この曲のヒットにより、発売当初はヒットしていなかった3rd、4thシングルの「SHADOW CITY(シャドーシティ)」、「出航 SASURAI」も相乗効果で大ヒット!

「SHADOW CITY」は、発売から約9ヵ月後にオリコンシングルチャートで3位を記録し、『ザ・ベストテン』では本「ルビーの指環」と「SHADOW CITY」、「出航 SASURAI」の3曲が同時トップ10以内にランクインしていて、こちらも快挙です。

Reflections

寺尾 聰プロフィール

・名前:寺尾 聰(てらお あきら)
・生年月日:1947年5月18日
・出身:神奈川県横浜市保土ケ谷区出身
・職業:日本のベーシスト・シンガーソングライター
・所属事務所はホリプロダクション→石原プロモーション

現在は、寺尾音楽事務所(自らの個人事務所)所属。
*父は俳優の宇野重吉。
当時の「ルビーの指環」とはちょっと違ったリズミカルな曲調ですが、こちらの「ルビーの指環」もおススメです。

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