森永ヒ素ミルク中毒事件とは?事件の発覚から被害者を守るまで

日常

森永ヒ素ミルク中毒事件の出来事が、「母と子 あの日から~森永ヒ素ミルク中毒事件60年~」と題して、ETVで放送されます。

番組では、「原因がわからずに自分を責めた」とおっしゃるお母さんがとても印象的でした。

ここでは、聞いたことはあったけど詳しく知らなかった「森永ヒ素ミルク中毒事件」についてまとめています。

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森永ヒ素ミルク中毒事件とは?

引用:http://www4.nhk.or.jp/etv21c/

母親が赤ちゃんに与える粉ミルクに猛毒・ヒ素が混入した「森永ヒ素ミルク中毒事件」は、少なくとも130人の乳幼児が死亡、全国で1万3000人以上の被害者を出した大きな事件です。

被害者の中には、脳性まひなど重い障害が残った人もいるのですが、後遺症の存在は、事件から10年以上認められなかったそうです。

国、森永乳業、被害者団体が昭和48年に「恒久救済」に合意した後も、当時のお母さんたちの自責の念は消えていないのです。

森永ヒ素ミルク中毒事件(もりながヒそミルクちゅうどくじけん)とは、1955年(昭和30年)6月頃から主に西日本を中心としてヒ素の混入した森永乳業製の粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の死者、中毒患者を出した毒物混入事件である。森永ヒ素ミルク事件(森永砒素ミルク事件、もりながヒそミルクじけん)とも。
食品添加物の安全性や粉ミルクの是非などの問題で、2016年現在でも消費者の権利として引き合いに出される事例となっている。また、食の安全性が問われた事件の第1号としてもしばしば言及されている。出典wiki

事件の発覚

森永乳業は、1953年(昭和28年)頃から全国の工場で酸化の進んだ乳製品の凝固を防ぎ溶解度を高めるための安定剤として、第二燐酸ソーダ(Na2HPO4)を粉ミルクに添加していました。

試験段階では純度の高い試薬1級のものを使用していたのですが、本格導入時には安価であるという理由から純度の低い工業用に切り替えられていたのです。

1955年(昭和30年)に徳島工場(徳島県名西郡石井町)が製造した缶入り粉ミルク(代用乳)「森永ドライミルク」の製造過程で用いられた純度の低い第二燐酸ソーダに、多量のヒ素が含まれていたために、これを飲んだ1万3千名もの乳児がヒ素中毒になり、130名以上の中毒による死亡者がでてしまいました。

この時使用された第二燐酸ソーダと称する物質は、元々は日本軽金属がアルミナを製造する過程で輸送管に付着した産出物で、低純度の燐酸ソーダに多量のヒ素が混入していました。

そして、これが、複数の企業を経て松野製薬に渡り脱色精製され、第二燐酸ソーダとして販売、森永乳業へ納入されてしまったのです。

後遺症の発覚

その14年後、大阪大学医学部の丸山博教授が指導した人たちによって、被害者に後遺症が残っている可能性があぶりだされました。

その報告が日本公衆衛生学会で発表され、事件は再燃。

被害者の親たちは再結集し、森永ミルク中毒のこどもを守る会は活動を再開します。

その闘いの中で裁判闘争と不買運動が大きな力を発揮。

一審では森永側が全員無罪とされたのですが、検察側が上訴。

刑事裁判は1973年(昭和48年)まで続き、判決は過失の予見可能性判断において危惧感説(新々過失論)を採用し、徳島工場元製造課長1人が実刑判決を受けました。

*危惧感説とは、 過失犯のことで、過失を成立要件とする 犯罪のことです。

ちなみに危惧感説が採用されたと見られる裁判例は本判決が唯一です。

一審の判決が衝撃的だったため、被害者側は一旦は民事訴訟を断念したのですが、その後の差し戻し判決により、被害者側は民事裁判を有利に進めることとなります

のちに後遺症問題が明らかとなるのですが、その時も森永側は長きにわたって、因果関係と責任を否定し続けていました。

森永不買運動とは?

「食品としての品質検査は必要ない」と主張していた森永の態度は厳しく指弾され、1960年代には、森永製品の不買運動が発生。

当時、森永は乳製品の売り上げでは明治・雪印をしのぐ企業だったのですが、長期裁判となったこともありイメージダウンは拭いきれず、シェアを大きく落とします。

特に岡山県では事件以降、森永製品への不信感が消費者に根強く残ったことから、売り上げの見込めない森永製品を一切扱わない商店も数多く存在していました。

西日本一帯で、このような動きは事件が一応の決着を見た昭和50年代まで続きました。

このような不売買運動は、当初は森永告発など支援者らの自主的な運動として行われていたのですが、森永の不誠実な対応に対抗するために守る会全国本部方針として決定し、国民に呼びかけてから大きく拡がり、日本の不売買運動史上最大のものとなりました。

その後、森永がようやく責任を認め、被害者救済に全面的に協力をすることを表明して以降、守る会は不売買運動の取りやめを決定して現在に至ります。

被害者の苦しみ

引用:http://www4.nhk.or.jp/etv21c/

現在も脳性麻痺・知的障害・てんかん・脳波異常・精神疾患等の重複障害に苦しむ被害者の方々が多くいらっしゃいます。(2014年現在約730名が障害症状を有している。)

また、若い時に就職差別や結婚差別を受けたり、親が亡くなったあとは、施設に入所している被害者も。

ミルクを飲ませた自責の念で、長く精神的に苦しんだ被害者の親御さんたちもたくさんいらっしゃるのです。

最終的に、被害者・厚生省・森永乳業の話し合いにより、1973(昭和47)年12月23日に確認書が結ばれ、1974年(昭和49年)4月25日に被害者の恒久的な救済を図るため財団法人ひかり協会が設立され、現在も救済の事業を続けています。

⇒ 公益財団法人 ひかり協会

また、別の団体で被害者を守る会も結成されています。
⇒ 森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会

まとめと感想

ここでは、ETVで放送された、聞いたことはあったけど詳しく知らなかった「森永ヒ素ミルク中毒事件」についてまとめています。

森永ヒ素ミルク中毒事件については、小学生のころ、社会科で習った記憶があります。

ただ、当時は単なるストーリーのような感覚しかなかったのですが、事件から60年たってもなお、症状を抱えていらっしゃる事実に、ご本人もご家族も随分苦しんでこられたのだろうな、と思うと、これから発症しうる放射能汚染の影響や子宮頸がんワクチンの症状などと、重ねてしまうのでした。

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