西川悟平(にしかわごへい)さんというアメリカで活躍するピアニストをご存知ですか?
西川悟平(にしかわごへい)さんは、7本指で引くピアニスト。
ここでは、そんな西川悟平(にしかわごへい)さんについて、プロフィールや経歴、最新のコンサート情報について調べてみました。
目次
西川悟平(にしかわごへい)プロフィール
・名前:西川 悟平(にしかわ ごへい)
・生年月日:1974年10月25日17時頃
・出身:大阪府堺市(現在の西区)浜寺出身
・血液型:O型
・未婚
・学歴:大阪音楽大学短期大学部ピアノ科卒
・職業:ピアニスト、オペラ歌手、ピアノ教師
・父の西川幹彦さんが浪曲師で5代目吉田丸氏
本も出版なさっていて、「7本指のピアニスト」よいう本の中には、「大人になっても絶対にピアノが弾ける方法」も紹介されています。
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西川悟平ピアノコンサート情報
西川悟平さんのピアノリサイタルコンサートの最新情報は公式サイトから確認できます。
毎年日本でのコンサートは、11月ごろに行われ、2018年も11月と12月に、東京都港区三田で数回のコンサートが予定されています。
●詳細は ⇒ https://goheinishikawa.com/
西川悟平さんがピアノを始めた経緯
プロのピア二ストの多くは、物心ついた幼いときから練習を始め、有名音楽学校や先生に師事して経験を積むのが一般的ですが、西川 悟平さんは、当初、「将来の夢は映画スターと映画監督だった」と、おっしゃるようにピアノの英才教育とは無縁の生活を送っていらしたようです。
小学校の音楽の成績も、ずば抜けて良かったわけではなく、大好きなアニメの幻魔大戦の曲につられて、中学ではブラスバンド部に入部なさるのですが、なんとも子供らしいかわいい動機です。
入部した中学のブラスバンド部では、チューバを担当。
あまりの音色の美しさに衝撃を受け、「いつかこの曲を弾けたらな」と、学校の作文に残すほどだったそうです。
当時は、かなりチューバに熱中して、音大に行こうと考えていらしたようです。
チューバってどんな楽器だろうと調べてみたら楽天市場に、ヤマハのチューバがありました。
さすがにお値段は、かなり高めです。
ところが、チューバで音大に行くにもバイエル程度のピアノの試験を受ける必要があります。
それを知って、15歳のときにようやくピアノのレッスンを受け始めたそうです。
男子高へ進んだ悟平さんは、ある日の持物検査で、先生からカバンに入れているショパンの楽譜を見つけられてしまいます。
男子高の持物検査でみつかった楽譜を取り上げようとする先生に、大事なものだから取らないで!とお願いし、事情を話すと、それがきっかけで応援してくれるほどになりました。
西川さんの通った男子高で音大を目指す生徒は、創立以来西川悟平さんが初めてだったそうです。
それがきっかけで、学校側はそれまでなかったピアノを用意し、「好きなだけ弾いていい」と悟平さんを全面的に応援してくれるようになったそうです。
そうやって、受験のために練習していたピアノが、いつの間にかチューバよりも面白くなってきます。
先輩の演奏を聞いて衝撃受けたショパンの曲は、高校在学中に弾けるようになり、ついにはチューバでなく、ピアノで音大にチャレンジすることにしました。
しかし、遅いスタートを切った西川さんは周りの多くの方から反対されます。
そのときのことを西川さんは、以下のように語っていらっしゃいます。
「99%の人が経験の浅い僕にピアノで受験することを反対しました。でも僕は本当にピアノを続けたかった。」 と。
そして、自分が不利であると知っていた悟平さんは、短大から四大へ編入する作戦を立て、1992年、大阪音楽大学短期大学部ピアノ科へ入学。
ここは何とかクリアできたものの、その跡の編入が大変だったそうです。
試験の課題は、悟平さんが当時もっとも苦手としていたベートーベン。
楽しみにしていた成人式への出席すら諦め、毎日10時間以上も練習して臨んだ試験でしたが不合格。
翌年も挑戦するのですが、やはり願いは叶いませんでした。
2回の編入試験に落ちた西川さんは、放心状態で雑貨屋で働いてみたり、台湾やロンドンに放浪したりしたり、何かしらの仕事につかねばと、ひとまずデパートの中に店を構える和菓子屋さんに就職。
この間、知人に頼まれて時々バーで弾いたり、小さな演奏会に出たりして過ごすのですが、大きな目標を失った悟平さんは、弾きたい!という熱意はあっても、そのはけ口がない日々に悶々と過ごす日々が続いていたそうです。
ピアニストデビューのきっかけ
西川悟平悟平さんに、信じられないような幸運が舞い降りたのは、1999年のある日。
大阪で行われた演奏会で、悟平さんの演奏がニューヨークから来ていた二人のピア二ストの耳に止まったのです。
それは、世界を飛び回って演奏していた巨匠故デヴィッド・ブラッドショー氏とコスモ・ブオーノ氏でした。
なんとお二人は、ニューヨークでのレッスンと演奏するチャンスを悟平さんに約束。
そして、その3ヶ月後に悟平さんは渡米するのですが、デヴィットとコスモ両氏が用意してくれていた演奏の場とは、なんと、世界に名だたるあのリンカーンセンター、アリスタリーホールだったのです。
そして、2000年にニューヨークのリンカーンセンター、アリスタリーホールで、2千人の観客を前にデビューを果たしたのでした。
その後も、アメリカで演奏する機会を与えられた悟平さんは、巨匠故ブラッドショー氏の最後の愛弟子として、毎日長時間に及ぶレッスンについていき、苦手であったベートーベンの演奏法のほか、ピアノ教授法など、本来なら10年以上かかる厳しい修行を数年でこなしました。
それは、日本の音大ではとても勉強できないことも、両氏から学ぶ貴重な体験になったそうですよ。
西川悟平さんの病気は?
順調に滑り出したかに見えた悟平さんのピア二スト人生ですが、渡米して間もない頃から感じていた指のつっぱりが、日に日にひどくなっていくのを感じていました。
ジストニアの発症
順調に舞い込んでくる演奏のチャンスと逆行して、ジワジワと固まっていく指に、やがて左手が動かなくなり、渡米4年後にはすべての指が内側に曲がったまま全く機能しない状態になってしまったのです。
それは、決まった動作を行うときにだけ筋肉が異常収縮する、いわゆる「職業ジストニア」という病気で、悟平さんの場合は、ピアノに向かうと指が動かなくなってしまうものです。
ジストニアとは、脳(主に大脳基底核)や神経系統の何らかの障害により、持続的または不随意的に筋肉が収縮したり固くなったりする難治性の疾患です。 ・持続的または不随意的に筋肉が収縮したり固くなったりすることをジストニア運動といい、ジストニア運動を伴う疾患をジストニアと呼んでいます。
「経験の浅い自分が周囲の期待に答えられるだろうか」という大きな不安とプレッシャーが常にあったとおっしゃいますから、心理的な要因が大きかったのかもしれませんね。
保険のきく日本で治療をしようと、いったん日本に帰国なさるのですが、当時はジストニアはあまり認知されておらず、首から下の症状には保険が適用されないことがわかります。
そしてそれに追い討ちをかけられるように、何人ものお医者さまから、その症状は不治であるとの診断が下され、ショックが大きすぎて涙も出ず、胸が重く、顔を上げて歩くことができないほど、真っ暗だったそうです。
一時は、生活のために介護士とかハウスキーパーとか八百屋で働くことも考えたそうですが、ピアノあっての悟平さんにとって、ピアノなしで生きる意味は全く考えられず、ほとんどノイローゼのような状態になり、その時は死まで考えたそうです。
その当時のことをこう語っていらっしゃいます。
「でも怖くて死ねなかった。
自分の手首をしばらく見つめていたけれど本当に怖くて―。そして、死ぬ勇気があったらまだ何かできるかもしれないと思ったんです。」
それまでは、病気のことを話したらそれが最後で、アメリカで勉強を続けられないという思いから、ニューヨークのピアノの先生やスポンサーに病気のことを黙っていたそうです。
ところがこうなってしまった状態では、もはや自分に行く所はないと、諦めの決断で病気のことを告白すると、その答えは、驚くことに「一緒に治して行こう。」という嬉しいものだったのです。
それ以来、悟平さんはジストニアであることを公言するようになっています。
新たな挑戦へ
悟平さんがジストニアであることを知りながら、音楽ディレクターとして彼を採用したのが、JHC Foundation, Inc(ジェイ・エイチ・シー・ファウンデーション)の山本薫氏です。
そこは、バイリンガルの幼児教育に定評のあるアメリカ・コネチカット州の学校法人です。
「子どものうちに質のよい音楽と楽しさを」との山本氏の想いをもとに、悟平さんはJHC Foundation, Incの運営するグリニッチ国際音楽院の音楽ディレクターとして、子どもたちのクラスを受け持つことになりました。
当時は、『ちょうちょ』も『チューリップ』もまともに弾けなくなっていた時期だそうですが、思い切って始めた結果、子どもたちに教える喜びをいただいたと、悟平さんはおっしゃいます。
悟平さんはその後 、山本氏とともに、まず無理だろうと言われていたオクサナ・ヤブロ ンスカヤ氏(ジュリアード音楽院ピアノ科主任教授、各種国際コンクール審査員)の日本演奏会プロデュースも実現。
こうして、ピアノがまともに弾けない中、音楽に関する新たなチャレンジをしていった悟平さんは、2006年、山田耕筰のオペラ『黒船』のニューヨーク公演にオペラ歌手としても舞台にも立ちました。
そして、その頃出会ったのが、オペラ歌手の田村麻子さん。
かつてピアニストを目指していたことがある田村麻子さんは、悟平さんの状況に深く同情し、一緒に練習をしようと悟平さんを誘ってくれたのです。
麻子さんは「できる範囲でいいから」と、悟平さんにオペラの伴奏を頼み、それに合わせて歌います。
そうやって、田村麻子さんと練習を重ねるうちに、悟平さんの動かなかった右手の1本の指が動き出したのです。
限られた指で試行錯誤しながら弾くうちに「完璧に運指を辿らなくてもいい、使える指だけで弾けばいいんだ。」と気づいた悟平さんは、現在動く右手と左手の人差し指、親指の7本で独自の演奏方法を編み出したのです。
こうやって7本指のピアニスト西川悟平(にしかわごへい)さんが誕生ました。
2008年には、かつて招待を受けたイタリアのアレキサンダー&ブオーノ国際音楽祭に再度、招聘(しょうへい=丁重(ていちょう)な態度で招かれる)される。
2009年には、ニューヨークの名門スタインウェイ・ホールで、田村麻子さんとディストニア治療・研究支援のためのチャリティコンサートを開催。
NYスタインウェイホールで行われた西川悟平さんの40才バースデーコンサートがとってもステキです!
曲はなんだか切ないんですけどね。
まとめと感想
ここでは、7本指のピアニスト西川悟平(にしかわごへい)さんについて、プロフィールや経歴、最新のコンサート情報について調べてみました。
西川悟平さんのピアノリサイタルコンサートは、日本では、毎年11月ごろに開催されているようです。
最新情報は公式サイトから確認してみてくださいね。
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