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零戦パイロットとしてハワイ真珠湾を戦い、その体験を語り継いできた原田要さんが12月の」NNNドキュメントで特集されます。
原田要
出典:https://www.facebook.com/nnndocument/

原田要さんは、霞ヶ浦航空隊を首席で卒業し、命がけで敵を撃墜することが最高の名誉と考えていました。
ところが、出撃を繰り返す中で意識が変わっていきました。
終戦後は、平和を重んじる人間を育てたいと経営するかたわら、半世紀近く自身の体験を語らなかった原田さんが、湾岸戦争をテレビで見た園児の言葉に衝撃を受け、語り部として生きる覚悟を決めたそうです。
ここでは、そんな原田さんについて、プロフィールや経歴について調べてみました。
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永遠の0のモデル?

零戦パイロットの話として有名なのは、永遠の0 (講談社文庫) です。
百田尚樹さんの作品で映画化もされ大ヒットしています。
その作品の主人公は宮部久蔵という人物でしたが、原田要さんが宮部のモデルだったのではないかと噂されていました。
百田尚樹さんは、原田さんをモデルに宮部を描いたわけではなかったようですが、原田さん自信が、永遠の0を読んで、「これは自分のことではないか」と思ったのだそうです。
その後に、原田さんは百田尚樹さんと一度会って、永遠の0について語ったことがおありのようです。
最初は自分のことかと思ったけど、読んでいくうちに

「あいつのことかもしれない」

と次々に当時の戦友の顔が浮かんだそうです。
百田尚樹さんはこの時の会話について後にツイッターで以下のように語っていらっしゃいました。

「涙なしには話すことができなかった」

原田 要(はらだ かなめ)さんプロフィール

  • 原田 要(はらだ かなめ)
  • 生まれ:1916年(大正5年)8月11日
  • 死去: 2016年(平成28年)5月3日
  • 出身地:長野県上水内郡浅川村

*元日本の海軍軍人、戦闘機操縦者、最終階級は海軍中尉。
書籍の監修や、ご自身でも書籍を出版をなさっています。


原田要は永遠の0のモデル?ゼロ戦乗りの遺言とは?>零戦(ゼロファイター)老兵の回想―南京・真珠湾から終戦まで戦い抜いた最後の生き証人 (シリーズ日本人の誇り)

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原田 要さんの経歴

長野県上水内郡浅川村(現長野市)の農家に生まれた原田 要(はらだ かなめ)さんは、わんぱくで勉強は好きではないが、よく出来たほうだったそうです。
・1929年(昭和4年)、旧制長野中学(現長野県長野高等学校)に入学
・1933年(昭和8年)、一般志願兵として海軍に入隊し、駆逐艦「潮」乗組みとなる。
ところが大砲や魚雷があまり好きになれず、次第に幼少時に見て以来ずっと憧れていた飛行機に乗りたいと志すようになったそうです。
ただ、上司や父の反対もあり、たまには飛行機に乗せてもらえるということで、1935年(昭和10年)横須賀航空隊に航空兵器術練習生として入隊。
そこでは、思っていたほど飛行機には乗せてもらえないまま、半年後に航空兵器術練習生を卒業し、空母鳳翔乗組みとなる。
そこで搭乗員との待遇の違いを見せられたことで、勇ましい戦闘機乗りに憧れ、思いを抑えることが出来なくなり、自分で勝手に親の承諾書を作り、操縦練習生試験の願書を提出してしまいます。
同1935年(昭和10年)に、晴れて操縦練習生試験に合格し、霞ヶ浦航空隊へ入隊。
ここでは「雷撃の神様」こと村田重治等、著名な搭乗員に教えを受けています。
1937年(昭和12年)に操縦練習生35期を首席で卒業。
佐伯空での戦闘機延長教育の後、12航空隊付きとなった。同年に支那事変が勃発し、南京陥落直前の同年12月12日、日本海軍機の誤爆によるパネー号事件が発生し、その時の戦闘機隊の一員として原田さんも参加し、爆弾を命中させています。
数々の戦闘機隊の一員として参加しながら 1942年(昭和17年)6月5日から7日に発生したミッドウェー海戦でも、戦闘機隊小隊長として機動部隊上空直衛任務に就いています。
10月17日、ガダルカナル島ルンガ泊地の敵輸送船団攻撃に、飛鷹戦闘機隊第三小隊長として出撃シた際に敵機に白煙を噴かせ撃退するも自らも被爆し、重傷を負った原田さんは、眼下の椰子林に不時着。
数日間ジャングルをさまよい歩き、海軍の特殊潜航艇基地にたどり着き、同基地にて懸命の治療を受けるものの傷は悪化し、マラリア、デング熱も併発し、生死の境をさまよったそうです。
同年11月5日に舟艇に乗せられ、ガダルカナル島を脱出し、約1週間後にトラック島の第四海軍病院で意識を取り戻しました。
この戦いを最後に、戦場復帰はできませんでした。
その後もガダルカナルでの負傷の後遺症に苦しめらつつも、霞ヶ浦航空隊千歳派遣隊の教官として、ロケット戦闘機秋水搭乗員養成に携わることになるのですが、その秋水は初飛行で不時着大破して失われたため、原田さんは実機を見ることはなく、そのまま終戦を迎えています。
戦後は農業などをしていましたが、1964年(昭和39年)に自治会長になったことをきっかけに、託児所を開設。
続いて幼稚園を経営するようになり、長らく長野市内の幼稚園の園長を務めていましたが、晩年は引退していました。
ここで、湾岸戦争をテレビで見た園児の言葉に衝撃を受け、語り部として生きる覚悟を決め、園児を始め色んな所で公演しながら、戦争を使えていかれていました。
2016年5月3日、に99歳で多臓器不全のために死去なさっています。

ゼロ線乗りの遺言とは?

原田さんが私たちに残した遺言は書籍や関連映画や公演会ビデオなど、いたるところで触れることができます。
番組内でも原田さんは、以下のように語っていらっしゃいます。

戦争とは人を殺(あや)めること
最後まで追いかけ回して命をとっちゃう
こんな罪深いことはない

また昨年、2015年に「ひとりひとりの戦場 最後の零戦パイロット」という終戦70周年のドキュメンタリー映画にもご出演なさっていました。
こちらが予告動画です。

まとめと感想

戦争を知っている世代が、ほとんどいらっしゃらなくなりました。
小学生の頃はよく、終戦記念日に学校で戦争についての映画をみたり、祖父や祖母、または親戚のおじさんや両親から戦争の話を聞いて発表するような授業も行われていました。
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