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山本篤(やまもとあつし)選手は、北京パラリンピック走幅跳銀メダリスト。
世界選手権、アジアパラ競技大会など多くの国際大会でメダルを獲得している義足のトップアスリートで今年のリオパラリンピックでは、金メダルに最も近い男として注目を集めています。
出典:http://sportrait-web.com/
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その山本選手が2018年の平昌オリンピックでスノボードでもご活躍されましたね!
⇒ 平昌パラリンピック2018競技日程とテレビ放送時間まとめ 
 
ここでは、義足陸上のパイオニアと呼ばれる山本篤(やまもとあつし)選手のプロフィールとともに、強さの秘密を探ってみました。
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山本篤(やまもとあつし)選手プロフィールと経歴

  • 名前:山本篤(やまもと あつし)
  • 生年月日:1982年4月19日
  • 出身:静岡県掛川市出身
  • 1998年 静岡県立掛川西高等学校 入学
  • 2000年3月 バイク事故によって左足ももから切断
  • 2001年 日本聴能言語福祉学院 義肢装具学科 入学
  • 2004年 大阪体育大学体育学部 入学
  • 2008年 スズキ株式会社 入社

義足陸上を知ることになった経緯

山本篤(やまもとあつし)選手は、子どもの頃からスポーツ万能で、小学校では野球チームに入り、中学、高校ではバレー部に所属。
何をやらせても、誰よりも上達するのが早かったそうです。
けれど、最後にはコツコツと努力する友人に抜かれてしまうのが常で「まぁ、自分はこんなものだろう」と、それ以上に努力することはあまりなかったそうです。
そんな彼が、初めて挫折を味わい、自らの限界に挑戦したのが、陸上競技でした。
山本選手は高校3年になる直前の春、バイク事故で左足の大腿部を切断し、義足を履き始めます。
それをきっかけに義肢装具士になろうと、高校卒業後は、専門学校に入学。
そこで知ったのが、競技用義足で行うパラ陸上の世界でした。
自然と目指し始めたのは、2年後の2004年に控えていたアテネパラリンピック。
山本選手は順調に力を伸ばし、2004年3月の最終選考会の時には100メートルの日本記録保持者となっていたのですが、選考基準とされた標準記録には届かず、代表にもれてしまいます。
これまで、スポーツならどんな競技でも、誰よりも先に結果を得ることができていたのに、その時は他の義足選手たちが代表に選ばれる中、山本選手は落選します。
こんなことは、初めてだったそうで、このことがきっかけで、陸上への気持ちが一気に高まっていったそうです。
山本選手は、本格的に競技をするため、内定していた就職を取りやめます。
そして、大阪体育大学に入学し、陸上部に所属し、一般の選手とともに練習に励みました。
その結果、4年後の北京パラリンピックでは、100メートルで5位入賞。
さらに走り幅跳びでは、銀メダルを獲得。
これは、パラリンピックの陸上競技において、日本人の義足選手では史上初のメダルという快挙でした。
このときの気持ちを、山本選手はこう語っていらっしゃいます。

「義足の選手で、代表漏れを経験しているのは、実は僕だけなんです。僕は、みんなが経験していない悔しさを味わった。でも、だからこそ、義足で初めてのメダリストにもなれたのだと思っています。それに、もしアテネに行くことができていたら、おそらく僕はこんなにも陸上にはまってはいないし、こんなに努力もしていないと思うんです。あの時の挫折があるからこそ、今の僕がある。その思いは、まったく変わっていません」

アクシデントが起こっていた

2015年10月、カタール・ドーハで行われた世界陸上競技選手権での山本選手は、100メートル走では5位だったものの、走り幅跳びでは見事優勝し、早くもリオデジャネイロ行きの切符を獲得しました。
しかし、実はこの日の山本選手は、前日からの感じていた腰の違和感が、1本目の走り幅跳びの直前に痛みを感じます。
そして跳ぶ直前になって「ピキッときた」と。
それでも、3本目で6メートル18を記録し、トップに躍り出ます。
そして、最後の6本目で大会新記録となる6メートル29をマークし、なんと金メダルを獲得したのです。
競技中はアドレナリンが出ていたので、なんとか跳べたという感じだったそうです、が競技後は立ち上がることも、歩くこともできないほど腰は悪化し、翌日の準決勝は棄権を余儀なくされたのだそうです。

ロンドンパラリンピックでの新しい気づき

出典:http://sportrait-web.com/
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山本選手は、世界ランキング1位で臨んだ4年前の2度目のロンドンパラリンピックは、前回大会で銀メダルを獲得していた幅跳びでは、否応なく金メダルへの期待が高まっていました。
そして当然、山本選手にも自信がありました。
ところが、結果は5位という予想外のもので、実は、そのときの山本選手の心の内は自信と不安とが入り混じっていたのだそうです。

「世界ランキング1位と言っても、記録を出していたのは、国内の大会であって、国際大会では一度も6メートルを跳んでいなかったんです。それでも、自分では『絶対にいける』と思っていましたが、やはり不安があったのだと思います」

周囲の選手が、1、2本目と早い段階で好記録を出していく中、なかなか力を発揮できず、記録も伸びず、徐々に自信は焦りへと変わり、自分自身への疑念へと変わっていったそうです。
しかし、こののロンドンパラリンピックでの経験で、山本選手は、競技中に他の選手の跳躍を見ることをやめたのです。

「それまでは他の選手のことが気になって、特にライバルの選手の跳躍は見ていたんです。ロンドンでも、じっと見ていました。でも、それが余計に焦りを生み出してしまっていたのかなと。それに、そもそも不安だからこそ、他の選手が気になってしまうわけですよね。だから、もう見ないことにしたんです」

その様子がリアルに表現されたのが、昨年の世界選手権です。
トップの山本選手を追いかけて、ライバルが最後の跳躍に臨もうと走り始めた瞬間、既にスタート地点で順番を待っていた山本選手は、ライバルにクルリと背を向けました。
結果的にライバルはファウルとなり、その時点で山本選手の優勝が確定したのですが、それが腰痛を抱えながらの大会新記録という大ジャンプにつながったのです。
今回のリオパラリンピックが3回目の出場になる山本選手は、

「あの最悪な体のコンディションの状態で、あそこまで跳べたのだから、万全だったらもっといっていたはず。まだまだ自分には伸びしろがあると感じました。いったい自分はどこまで伸びるんだろう。今、そう思えるんです」

と、挑戦し続けることを楽しんでいらっしゃるようです。
かつては、山本も健常者のような走りを目指した時期もあったそうですが、ロンドンパラリンピックでの敗戦を機に自分だけの走りを追求しています。

まとめと感想

山本選手について、あれこれ調べていくなかで、どんなに探しても、事故にあって足を切断したときの思いに触れることができませんでした。
高校生といえば、自分の将来をはっきり決めてなかったとしても、漠然とでも将来に対する夢や期待を持っていたと思うのです。
精神面でも一番多感な時期で、同世代の女子にも一番関心のあるころです。
この時期をどう乗り切っていかれたのか?
またご家族のどんなサポートがあったのか、ずっと先になって、山本選手から聞くことができるのかな?と思いました。
山本選手の強さの秘密は、自分の走りを自分で作り出す発想力です。
167cmと小柄ながら、健常者では考えられない「左右非対称」な走りを武器に世界と渡り合ってきました。
独学で残された身体機能を最大限に生かした、平昌のパラリンピックでのご活躍も、リオパラ同様元気と勇気をいただけましたね!
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