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矢場とん(やばとん)の女将鈴木純子(すずきじゅんこ)さんが5月12日のカンブリア宮殿の主人公。
鈴木純子さんは、1軒の大衆食堂「矢場とん」に嫁いできて、名古屋名物みそかつを全国区にまで広げた敏腕女将!
矢場とんの味噌カツは通販でのお取り寄せもできますね!
その鈴木さんの、プロフィールや家族構成、またご主人との馴れ初めやスタッフとの家族ぐるみの付き合い方についても調べて見ました。
出典:http://www.fujisan.co.jp/
出典:http://www.fujisan.co.jp/

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プロフィールと家族構成

・鈴木純子(すずきじゅんこ)
・1947 年、名古屋市南区生まれ
・1968年に東海学園女子短期大学を卒業
・1971年、23 歳のときに、「矢場とん」二代目社長、鈴木孝幸氏と結婚。
*子育てを終えた43 歳で本格的に店に入り、サラリーマン家庭で育った普通の感覚と怖い物知らずの度胸で老舗の飲食店を改革。
*2000年から2014年矢場とんの代表取締役として活躍
*名古屋といえばみそかつ、みそかつといえば矢場とん、と言われる地位を築く。
お子さんは3人。
ご家族は、ご主人鈴木孝幸(矢場とん2代目)と
・長男が鈴木拓将さん(矢場とん3代目)
・長女藤下理恵子さん(取締役経理部長)
・次男鈴木将吾さん(経営には携わらず、高校野球のコーチとして甲子園を目指していらっしゃいます)
・あと、お孫さんの藤下皓平さん。
・純子さんは、1968年に東海学園女子短期大学を卒業してから3年後の1971年に鈴木孝幸氏(矢場とん二代目)とご結婚。サラリーマンの家庭に生まれ育った鈴木純子さんの夢は、都会のレストランに嫁ぐ事だったそう。

ご主人との馴れ初めは?

ご主人との出会いは、名古屋のYMCA。
純子さんは孝幸さんのことを、最初は、大勢の男子の中の一人と思っていたそうですが、YMCAのキャンプでトイレ掃除などの雑用を一生懸命取り組んでいるのをみて、好感を抱いたそうです。
一方、孝幸さんのほうは、順子さんをはじめてみたとき、歌手で女優の田代みどりさんに似ている素朴さが好印象だったそうです。
それから、大学時代には、孝幸さんが毎日純子さんを短大から実家まで車で送り迎かいをしていくうちに、おつきあいに発展。そして晴れて結婚ということになったそうです。
当時の矢場とんは、、串かつやとんかつはもちろん、焼きそば、パスタなどもメニューに並ぶ、なんでもある大衆食堂。
都会のレストランとは少し違っていますが、飲食店というくくりでみると、夢の8割はこの時点で叶っていらっしゃるのかもしれませんね。

結婚生活は?

嫁ぎ先は、昔店舗として使っていたところで、姑や住み込みの店員5~6人と一緒に暮らす生活。
新婚ムードもなにもなく、生活するのに夢中な毎日で、ぐちゃぐちゃの日々。
お店の経理を担当しながら子育てもされていました。
お客さんは男性ばかりでしたけど、すごく流行っていたそうです。
この頃の社長は、先代鈴木義夫氏に先立たれたお姑さんで、お店の気になる事や改善したい事を口にしても、入ったばかりの嫁という立場の鈴木純子さんに耳を貸す人はなく、ご主人も大好きな中日ドラゴンズを追いかけ回して、店にも家にも寄りつかなかったそうです。

主婦から経営者へ

1980年。
結婚から9年目に、ご主人の鈴木孝幸さんが2代目社長に就任。
これで、純子さんの意見も反映されると思われましたが、順調とはいかなかったようです。
提案もご主人にまで反対されたり聞き入れてもらえなかったり、そもそも、中日ドラゴンを追いかけて家に帰ってこないご主人です。
寂しくて辛くて、実家に電話し、泣き言を言うと、「お嫁に行ったんだから辛抱しなさい」とお母さまに言われ、まさに孤立無援状態だったと。
このときに、大きな決断をなさいます。

「今思うと、両親や子供を裏切りたくない。それだけが支えだったかもしれない。
生きていくためには、あの泥臭い飲食商売の世界に飛び込むしかない。そう腹を括りました」と。

子育てがひと段落した43歳の時に、純子さんは本格的にお店に入っていきます。
1990 年代。
名古屋名物のひとつ、みそかつの老舗矢場とんは低迷していました。
経営の事も学んだ事はなかったですが、普通の感覚と怖いもの知らずの度胸で改革を開始。
お店の顔である暖簾は、風が吹くととんでいってしまうほどお粗末なもので、飛ばないように輪ゴムでとめていました。
まず、この暖簾を代えたいとおもっていて、念願の長い暖簾に替えたのは、嫁いでから約20年が経過した90年のことだったそうで、ここから、ようやく女将の矢場とん改革がスタートしたのです。

矢場とんのさまざまな改革

矢場とんの改革には、純子さんだけではなく、ご長男(現3代目の社長)さんという力強いサポートがあっての事でした。
純子さんはにとっての矢場とんは不満だらけだったそうです。
大女将や二代目、古参の従業員に反対されながらも「お願いします」と頭を下げ、プラスチックの器を、少しずつ買い足した陶器に替えていきました。
看板メニューも。効率の悪い串かつから、ロースとんかつに替えていくのですが、その改革も停滞期を迎えてしまいます。
その原因はおもに従業員にありました。
暖簾や食器、メニューを替えても、そこで働く人たちの意識が変わらないことには本当の改善はないと気づいたのです。
無断欠勤、遅刻、接客態度の悪さ。
当時のことを、

「私が近づくと、それまでの楽しそうな会話がピタッと止まるんです。
現実から目をそらしたかったし、本当に怖かった。
店に出たくないなぁと思った日もありました。
でも、私は若い子にこれ以上店をめちゃくちゃにされたくないと思ったんです」

とおっしゃっています。
1998年8月、女将は長男の拓将を矢場とんに入社させます。
長男の拓将さんは、1996年中部大学を卒業し、名古屋ヒルトンホテルでベルボーイなどを2年間勤めた後、矢場とんに入社。
ホスピタリティ、サービス業を学んできた鈴木拓将さんは従業員にも厳しかったようで、「僕たちの言うことがイヤなら辞めてくれ」とはっきり言ったことで、スタッフがほとんど入れ代わったそうです。
また、大女将には店からの引退を、
二代目(お父様)には赤字を抱えていた弁当屋を名古屋ドームから撤退するよう勧告。
辛抱強く時機を待っていた純子さんが実権を握ったのは、51歳。
長男の拓将さんが入社した翌年1990年のことでした。
まず最初に着手したのはお金の管理。
当時はひどい丼勘定で、二代目も大女将も、レジに入っているお金がすべて自分の使えるお金と勘違いして、持って行くのだそうです。
それなのに、支払いが滞ったり。
そこで女将は、注文時に売り上げがデータで管理されるPOSを導入して、家の人間は一切レジのお金に触れないようにしました。
また、古くから付き合いのある肉や米の業者もすべて入れ替えました。
お肉やお米が美味しくなかったことと、店舗数を増やすために、質のいい生の肉やお米を大量に仕入れる必要があり、それができる大手とおつきあいをする必要があったのです。
それまでは、二代目が友だち関係で付き合ってきた業者だったのですが、ここはもうしっかり線を引こうと思ったそうです。
純子さんが嫁入りした頃の矢場とんは、八百屋から一箱仕入れても傷んでて半分使えなかったり、肉も冷凍で新鮮ではなかっそうで、そういう仕入れをしていることが許せなかったと。
また、営業中に平気で納品する業者にも、オープン前に来るように言ったり、
店にやってくる著名人や野球関係者との付き合い方も見なおしたそうです。
二代目(純子さんのご主人)を慕っていろんな方が来てくれることは、お店の宣伝にもなるし、最初はとても嬉しかったそうです。
ところが、食べ終わったらお金も払わずに、サッと出て喫茶店にでていってしまう。
二代目が、彼らから絶対にお金を受け取ろうとしなかったことに対して、せめて原価くらいは欲しいので、「おいしいコーヒーも淹れるから、30分くらい居て、お客さんにサインしてあげて」とお願いしても、「そんなことよう言わん」といわれ、とても悔しい思いをなさったそうです。
でもこのことは、後になって、とても嬉しいことにつながります。
矢場とんの60周年パーティでのこと。
二代目のご主人が、食事の代金を受け取らずに、慕ってくれていた人たちを招待したら、全員来てくれたそうなのです。
そのときのことを純子さんは、こう語っていらっしゃいます。

「霧がぱぁっと晴れました」
矢場とんの創業60周年記念式典で、会場に居並んだのは、さだまさし氏や大橋巨泉氏、中日ドラゴンズ関係者など、錚々たるゲストたち。みな、矢場とんを愛する常連客だ。
彼らを前に女将は、感慨深い表情でこう振り返る。
「それまでは、過去を引きずっていたところが結構あったんです。
でも、あの式典を境に、無条件に前を向いていきたいなぁと思えた。
私のなかで溜まっていたものが吹っ飛んだ式典でしたね」

二代目も矢場とんも本当に愛されてるんだな、と思えたことでスッキリとして、何かがやっと吹っ切れたそうです。

純子さんを支える人々

赤字店を繁盛店に変えていった純子さんですが、これは、純子さん一人ではなしえなかったことかもしれません。経営陣ほか、従業員の協力と教育があってこそのもの。
そのあたりをみえいきましょう。
矢場とん2代目鈴木孝幸氏(純子さんのご主人)
・1947年名古屋市生まれ。
・1970年に愛知学院大学を卒業。
*大学在学中から観光ホテルの洋食部門でアルバイトをしながら料理の勉強をしていたそうです。
この頃から、大の中日ドラゴンズファンで、球場でもアルバイトをしていた経験も。
このアルバイトが縁で、当時の中日スタジアムに味噌カツの屋台出す事ができたそうです。
*大学卒業後はアルバイトをしていた観光ホテルに就職。
ホテルが改装の際に、体調を崩して、実家に戻ってきて矢場とんの厨房に立つ事になりました。
この時鈴木孝幸さんは24歳。
・鈴木拓将さん(長男・矢場とん3代目)
*2014年6月に代表取締役に就任
・藤下理恵子さん(長女・取締役経理部長)
・武藤 悟さん
*なごや矢場とん有限会社 取締役営業部長
*女将を母と慕う、現場のムードメーカー。
*19 歳でアルバイトとして入り、一度は他のエリアで独立開業するもうまく立ちゆかず、矢場とんでやり直そうと舞い戻ってきた。
他にも、純子さんにとっての70 人のスタッフは、全員が自分の子どものような存在です。
そのスタッフとのかわりがまた、純子さんを支えた大事な関係でもあるのです。
たとえ、とんかつ屋だって家くらい持てるんだって思ってもらいたいと、純子さんは、従業員とも家族同然に徹底的に付き合い、まるで自分の子供であるかのような愛情を注ぎ教育しています。
例えば、年に一回総会をひらき、そこでは正装を義務づけているそうで、スーツやドレスを買わせるのは「社会人なんだから、冠婚葬祭に着ていく服がない、なんてことにならないように」という思いから。
総会ではMVP、社長賞、女将賞、敢闘賞、新人賞を表彰し、商品は記念にしてほしいからと、現金ではなく、作家志望だった子には上等な万年筆を、新居を購入した人にはテレビをというように、その子に相応しいもの」を贈るそうです。
また、スタッフの家族を店や自宅に招待したり、結婚記念日には奥さんに花を贈ったりもするそうです。

「スタッフは土日が休みじゃないですから、少しでも報いたくて。
仕事をきちんとしてもらうためには、家庭も、プライベートの過ごし方も大切だと思うんです。
私が安心したいから踏み込みたい。
独身のスタッフには、早く結婚するな、とも言いますし、給料の使い方にも口を出します。
仕事に余裕が出てくる30歳までは結婚せずに、しっかりお金を貯めなさいって、天引き貯金もさせます」と。

また、社員には家をもたせたいというのも純子さんの口癖で、

「チーフたるもの、自分が寝に帰るだけの部屋ではいけないと思うんです。
下の子たちが帰れなくなったとき、親が遊びに来たときに、泊めてあげられる余裕をもっていてほしい。
たとえ、とんかつ屋でもいい暮らしができるということを証明したい。
そんなチーフの暮らしに下の子たちが憧れて仕事を頑張ってもらえたら。

こういう思いから、実際に、4人のチーフは純子さんが保証人となり、家を購入しているそうです。
純子さんは、今後は人材育成とボランティア活動に力をいれていきたいそうで、きっかけは、2002年にアンコールワットの観光で友達と訪れた初めてのカンボジアでのこと。
そこで物乞いの子供たちと、その背後にいる無気力な大人達を目の当たりにし、「この子たちに教育を受ける機会を与えたい」と思い、学校を作るための募金活動を開始。
カンボジアに学校を作るために必要な500万円も、「正直一人で寄付したほうが楽だけど、そこで苦労してやることが大事だと思う」と、ここにも従業員を巻き込んでやっていきます。
店頭に募金箱を置くだけではなく、宣伝用のタダのうちわを100円で買ってもらったり、なかでもバナナ伝説として語り継がれているエピソードは、女将のボランティアに取り組む姿勢をよく表しています。
仲の良い業者から「スタッフのみなさんでどうぞ」ともらった大量のバナナを、募金活動に使うことに。
イベントで開催した「市」で、豚肉や惣菜を買いに来たお客さまに、事情を伝えながら4~5本がラッピングされたバナナを150円で販売し、約1万4000円の募金が集まったそうです。
そうやって集まった、学校建設費で、2008年に記念すべき1校目が設立され、2016年1月19日には初の高等学校である第4スクールが開校しています。⇒ カンボジア小学校建設プロジェクト
純子さんが、赤字経営だった矢場とんを繁盛店に変えていったいきさつは、書籍としても発売されています。

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まとめと感想

私の住む街にも、「矢場とん」の店舗があり、いつも大勢の人でにぎわっています。
こういう経緯で、博多に出店したことは知りませんでした。
矢場とんの味噌カツは通販でのお取り寄せも可能です。⇒名古屋名物みそかつ矢場とん
 
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