建築家の坂東幸輔(ばんどうけいすけ)氏が7月30日のクロスロードの主人公。
坂東幸輔さんは「建てない建築家」という異名を持ち、新しく建物を建てるのではなく、空き家(古民家)再生のスペシャリストです。
最初に空き家(古民家)再生に取り組んだのは徳島県の神山町。
そして現在は同じく徳島県の人口70人の小さな出羽島の空き家(古民家)を再生中。
出羽島(でばじま)は徳島県海部郡牟岐町(むぎちょう)にある人口70名の小さな島で、車もないほど。現在、空き家(古民家)再生のスペシャリスト、坂東幸輔(ばんどうけいすけ)氏がこの出羽島での空き家再生をてがけていらっしゃるとのことで、出羽島につ 出羽島(徳島県海部郡)どんなとこ?行き方アクセスや口コミも調査 - リバティ |
ここでは、坂東幸輔さんのプロフィールや経歴、そして空き家を再生する道に進んだ理由、また運命を変えた建物や徳島県の神山町についても調べてみました。
目次
プロフィール
・名前:坂東 幸輔(ばんどう こうすけ)
・生年月日:1979年(36歳か37歳)
・出身地:徳島県
・学歴:東京芸術大学美術学部建築科/ハーバード大学大学院デザインスクール
・職業:京都市立芸術大学講師/坂東幸輔建築設計事務所主宰/BUS主宰
【経歴・受賞歴】
2002:東京芸術大学卒業制作買い上げ賞
2002:第11回JIA東京都学生卒業設計コンクール金賞
2008:James Templeton Kelley Prizeノミネート
2008:KRob 08ファイナリスト
2009:第44回セントラル硝子国際建築設計競技佳作
2010:DAASデジタル卒業設計大賞2009難波賞
2014:JCDデザインアワード2014銀賞
2015:第一回四国建築賞 優秀賞 一般建築部門
2016:第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展審査員特別表彰 ←神山町の建築物
これだけの学歴や肩書きがありながら、坂東さんが空き家(古民家)を再生に尽力することになったのか、そのきっかけがとても気になりました。
きっかけは
2年間の無職の時代
坂東幸輔さんは、2006年9月から2年間ハーバード大学大学院のデザインスクールで建築の勉強していた優秀な方。
そして学校を卒業したら将来は、指導をしてくれた建築家たちのように、美術館や音楽ホールといった大きな公共的な建築を都市の中に設計して社会の役に立ちたいという夢を持って、また、世界中の設計事務所で働けると夢見ていました。
まずは設計を指導してくださった先生のオフィスに入ろうと願書を送る前から、先生のオフィスのあるニューヨークに引っ越して1週間後、なんと、リーマンショックが起きてしまうのです。
これが2008年の9月。
ニューヨークの会社はどこもリストラの嵐で、建築家を数百人抱える大手設計事務所が大規模なリストラをするなか、坂東幸輔さんの就職活動が全くうまくいかず、2010年に東京藝術大学の助手になるまでのほぼ2年間、無職状態だったとのことです。
このときに坂東さんは、大きな企業や組織といったものに頼って生きることへの疑問を感じるようになったそうです。
実は、坂東さんは、リーマンショックから1ヵ月後の無職の時に、京都の上賀茂神社で結婚式を挙げていらっしゃいます。
披露宴では、司会の人から「新郎は求職中で・・・」と紹介してもらう情けない結婚式だったそうですが、そんなときに出会ったのが、神山町でした。
無職中に結婚式をあげる奥様に不安はなかったのか?とか新婦のご両親のほうが不安でたまらなかったのではないか?とか、新婦の親族にでもなったような気持ちになりますが、奥様も周りの方も全ての方が、坂東さんに対して大きな信頼があったのでしょうね。
神山町との出会い
結婚式が終わって、坂東さんの生まれ故郷である徳島市の実家のそばに、アーティスト・イン・レジデンスをやっているおもしろそうな街があるということを知って、奥様と神山町に行ってみました。
*レジデンスとは、住居、 住宅、 高級アパート・マンションなどのこと
そこで、NPO法人グリーンバレー理事長の大南信也さんから、アーティスト・イン・レジデンスの活動や神山町で起きているさまざまな変化についてお話を聞きます。
(左から奥さま、大南さん、無職中で少し険しい表情の坂東さん)
アーティスト・イン・レジデンスが行っている、道路の清掃活動や森づくりなどです。
通常は、こういった改革は行政主導で行うことを、住民自ら行うことでお互いに刺激し合い、田舎のおじさん、おばさんたちが少しずつ積極的に自分たちのまちを変えていっていたのでした。
NPO法人グリーンバレー理事長の大南信也さんもスタンフォード大学の大学院に留学した経験があり、お互い気が合ったのだと思う、とおっしゃる坂東さんは、アメリカから日本に帰るたびに大南さんに会いたくて神山町を訪れるようになりました。
2010年の春、やっと東京藝大の助手としての仕事が見つかったことを大南さんに報告すると、
「ぜひ学生を連れてきて一緒に空き家再生をやらないか」と声をかけてくれたそうなんです。
そして、改修を頼んでくれたのは、築80年の傾いた長屋の一角の空き家。夏休みをすべて費やして改修したのが、クリエイターが神山に滞在して作品制作するための拠点「ブルーベアオフィス神山」です。
どんな風に改修したの?
最初は、こんな普通の古い民家でした。
夏休み中の、学生と一緒の工事です。
そして出来上がったのがこちら。
すっかり和風モダンに豹変しています。
中では、こんな風にお仕事されてます。
最初の、このプロジェクトは、当時まだほとんど移住者のいない、神山町にサテライトオフィスが生まれることになり、人口が増えた過疎地域として日本中から注目されるようになります。
そして神山町の運命を大きく変えるプロジェクトに成長しました。
坂東さんの神山町での建物たち
他にも、坂東さんが神山町で改修した建物があります。
東京の映像関係の会社のサテライトオフィス「えんがわオフィス」は古い家屋をそのまま利用しています。
神山町の運命をも変えた建物たちは?
廃工場をコワーキングスペースにリノベーションした、「神山バレーサテライトオフィスコンプレックス」
この建物は、今年2016年3月に、消費者庁業務試験を行って有名になった建物です。
消費者庁の業務試験が行われた部屋はこちら。
もともと、廃工場とは思えないほどシンプルでモダンです。山村なので、冬は暖炉がないと寒いのでしょうね。
この建物に、国の機関が使われたことで、神山町が有名になり、運命がまた一段と変わっていったのでした。
2016:第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展審査員特別表彰
今年、2016年の5月に行われた「第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展」でのテーマはREPORTING FROM THE FRONT(前線からの報告)」。
坂東さんたち日本人のチームは、新しい世代の12組の日本人建築家の作品を展示することで、現代の日本の社会問題を建築の力で解決した事例を紹介しています。
その中に神山町の空き家再生プロジェクトも含まれています。
そしてこの国際建築審査展で、国別参加部門で約60か国の中で第2席となる審査員特別表彰を受賞なさいました。
これにより神山町が、世界的に注目されることになり、こんな山間部でありながら次に紹介するとおり、インフラが整っていることとあわせて、注目されることになったのです。
神山町が変わったもう1つの理由
徳島県の神山町は、本当に自然豊かで美しい町。
でもこの町がこれだけ斬新に変身した理由は坂東さんの空き家再生プロジェクトだけが原因ではありません。
そもそも徳島県の、2012年の当時の県知事は総務省で情報関連の担当部署に長くいただけに情報化に熱心で、2000年代半ばから県内全域に光ファイバー網を整備していました。総延長は地球5周分に相当する20万kmを超え、県民一人当たりに換算すると全国1位。
民間事業者のサービスエリア外である中山間地域には、県と国の資金で光ファイバー網が張り巡らされ、神山町もその対象エリアだったのです。
そういうベースがあって、そしてNPO法人グリーンバレー理事長の大南信也さんや地元のご年配の方々と、そして坂東さんの建築とがうまく合わさって、町全体がかわっていったのでした。
神山町について
ここは、ちょっと古いのですが、2012年時点で9社のサテライトオフィスが存在しています。
今では、インターネットの環境さえ整っておけばどこでも仕事が出来る環境になりつつありますから。
そして当時は受身だった神山町の現在は積極的に人を呼び込むことをやっています。
坂東さんが、空き家再生プロジェクトを立ち上げた当初の、アート・イン・レジデンスからワーク・イン・レジデンスと名前もかえて、芸術家だけではなく、イラストレーターや石釜でパンを焼きたい人など、様々な人が移住できるような呼びかけもしています。
田舎暮らしに興味がある方は是非、覗いてみてください ⇒ in 神山
まとめと感想
今、古い建物をリノベーションしたり、そのまま使えそうな建物は古民家カフェとして利用したり、様々な地域で古いものが見直されていて、私の住む町にもそんな建物や集落がすぐそばにあります。
坂東さんは神山町との出会いで人生が大きく変わったでしょうし、神山町もまた坂東さんとの出会いがきっかけで大きく変わっていった町。
坂東さんが神山町のプロジェクトで感じたことを以下のようにおっしゃっています。
リーマン・ショックを経験した後で神山町に出会い、
人のために自分の手の届く範囲で建築の設計をすることの喜びを学びました。
神山町で設計していて何よりうれしいのは、
設計した建物を使う人の顔、それも笑顔が見えることです。
神山町に出会う前後にも大きな施設の設計に関わりましたが、
設計をしていて感謝されるということはほとんどありませんでした。
また、「やったらええんちゃうん」という
行き当たりばったりの精神を神山町で学んだことも自分にとって大きな変化でした。
国や地域が成長していた時代とは違い、
計画してプロジェクトを進めるということが難しくなっています。
いつか夢だった大きな施設を設計することになるかもしれませんが、
今はとにかく目の前の自分に与えられた仕事をがんばって、
それから未来のことを考えようという
ゆったりとした気持ちで建築に向かえるようになりました。
人と町との巡り会わせが、とても素敵だなと思ったのでした。そしてこの神山町も!
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