太田正一さんのことが「名前を失くした父~人間爆弾“桜花”発案者の素顔~」と題されてETVで放送されました。
元海軍中尉の大田正一さんの息子さんの大屋隆司さんが「人間爆弾」と呼ばれた特攻兵器の「桜花」を少尉時代に発案した父親が、どのような人物だったのかを知るため、戦時中の父親を知っている元兵士の方たちに会いに行くというものでした。
息子の大屋隆司さん(63)が父の本当の名前を知ったのは中学生の時。
子煩悩でやさしかった父と、非情な兵器を考え出した父とが結びつかず、生前にはそれ以上詳しい話を聞くことはできなかったといいます。
ここでは、ETVで放送された太田正一さん(人間爆弾「桜花」発案者)を取り上げた番組「名前を失くした父~人間爆弾“桜花”発案者の素顔~」を見た感想をまとめています。
「名前を失くした父~人間爆弾“桜花”発案者の素顔~」の番組内容は
父は本当はどんな人間だったのか。
父が背負い続けたものはいったい何だったのか。
戦後70年の節目を迎え、隆司さんは戦争中の父を知る元桜花搭乗員を訪ね、その人生の痕跡を探り始めます。
知らなかった父の過去と向き合おうとする息子さん大屋隆司さんの姿を通して、今なお残る戦争の傷跡を探るというもの。
ここでは、人間爆弾「桜花」を発案した太田正一さんの素顔や生き様について調べてみました。
人間爆弾「桜花」とは?
「桜花」は太平洋戦争中、海軍が零戦の特攻に先駆けて開発を進めた特攻専用の有人飛行爆弾で、人間が操縦したままロケットを噴射し敵艦に体当たりするというもの。
いま、世界を恐怖に陥れている自爆テロの走りのようなものですね。
今でこそ日本は平和な時代になっていますが、ほんの少し前までは批判されている某所と同じようなことを、敵に向けてやっていた事実があります。
この非情な兵器を考え出し、海軍上層部に提案したのが大屋隆司さんのお父様、大田正一さんでした。
しかし現実の桜花は、母機が敵艦に近づく前にアメリカの戦闘機に撃ち落とされ、ほとんど戦果を挙げられなかったようです。
昭和3年の15歳の頃に海軍に仕官した大田さんは、一式陸上攻撃機に登場する偵察員だったそうです。
内藤初穂さんという方の著書『桜花』の記述で紹介されているようですが、、ミッドウェー海戦後、日本が負け続ける情勢の中で「人間爆弾」を発案し、自分が乗るとして、海軍航空技術廠の廠長の和田操中将と設計課の三木忠直少佐にそのアイデアを伝えたそうです。
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茨城県の鹿島の神ノ池という訓練基地に、昭和19年10月、「神雷部隊」が開隊すると、大田さんは特別待遇を受けて、個室を与えられたということでした。
しかし、重い「桜花」を積んだ飛行機は動きが鈍り、すぐに撃墜されてしまったそうです。
そして、搭乗した829人の方が戦死したとのこと。
資料にも、全機未帰還と書かれているようです。
日本軍のこの人間爆弾「桜花」のことを、アメリカ軍の兵士たちの間では「バカ爆弾」と呼んでいたようです。
当時の日本国内の新聞上では、「桜花」を発案した大田中尉は英雄扱いになっていたのだそうなのですが、昭和20年の8月15日に終戦を迎えると、大田さんの評価は一転。
終戦の3日後の8月18日には、茨城県の海軍神ノ池飛行場からゼロ式複座練習戦闘機で、遺書まで残して鹿島灘の沖合に向け飛び立ちます。
自決です。
しかし、彼は反転北上し、金華山沖の洋上に着水。
北海道の漁船に救われ、零戦ごと海に落ちた大田さんは漁船に助けられ、自殺は未遂に終わったということでした。
一命は取り留めたものの、彼は『航空殉職』とされ、一階級特進して『海軍大尉』となり、『戸籍抹消済』となっていたのです。
大屋隆司さんが今回会いに行った、元神雷部隊の田浦さんという93歳の方は、少尉だった大田さんが「発案した」というのは押し付けられたものではないのかとも話していました。
上層部の命令ではなく、その下の兵士たちが進んでその作戦を実行したいと言うのならやむを得ない、という形にしたかったのではないかと。
大田さんは、若い兵士たちに「人間爆弾」のことを話し、血の押印付きの署名を集めていたようでした。
そうして航空本部の伊東裕満中佐は「必死兵器」の開発を進め、しかし結局大田さん自身は「桜花」に搭乗することのないまま、終戦の日を迎えたのだそうです。
太田正一さんについて
部隊の多くの人が大田さんを恨んでいたと思うと証言する方もいれば、下士官が抜刀して仕官に向かって行った騒動を治めることができたのは大田さんのおかげだとい証言する方もいて、「桜花」発案者の大田正一さんの人柄は、いろいろな側面があったようです。
横山道雄として生きる
息子の大屋さんが調べたところ、戦後、自殺をしたことになって戸籍も抹消されたという大田さんは、本当は山口出身だったのですが、北海道出身の「横山道雄」という偽名で生きていたそうです。
素性を隠し大屋義子さんと出会い家庭を築きました。
大屋さんのお母さまは、あまり深くを聞かないことにしていたそうで、それは他の家族の方もそうであったようでした。
戸籍がなかったため婚姻届は出せず、定職にもつけず、各地を転々としながら、 対ソ密貿易をはじめ、闇屋のような商売を続けながら家計は奥様が支えつつ、大変ご苦労なさっていたようです。
それでも、息子の大屋さんにとっては、とても優しい、面倒見の良い父親だったそうです。
みんな「国のため」ではなく、親兄弟のために死んでいったのだと、元桜花隊員の根本さんという91歳の方が話していました。
そして、大田さんは、戦争に一生懸命だったのだとも話。
いくら「軍国主義」でも上司命令で死ねと言うことはできない、でも下からの発案とすれば問題にならないということらしいのです。
亡くなる直前は、何か幻覚にも悩まされて壮絶なものだったそうなのですが、その7か月前には、和歌山県の高野山を訪ねていたようでした。
大屋さんご夫妻は、宿坊の宮島さんという方に話を聞いていたのですが、大田さんは、そこでは本名を名乗り、「桜花」を発案したということも話していたそうです。
その後、三段壁という岸壁で自殺を図ろうとした大田さんは、警察に保護され、そこで激しく泣いていたのだそうです。
近所の人ともあいさつ程度で友人と呼べる人はいなくて、
いつも一人椅子に座りずっと空を眺めていたそうです。
そして、大田正一さんは平成6年12月7日にお亡くなりになっています。
まとめ
ここでは、ETVで放送された太田正一さん(人間爆弾「桜花」発案者)を取り上げた番組「名前を失くした父~人間爆弾“桜花”発案者の素顔~」を見た感想をまとめています。
移り変わる時代や、身をおく環境によって簡単に変わってしまう人生。
もし、この戦争が日本に勝利を治めていたら、私たちも今とは違った価値観の中で生活しているのかもしれないし、太田正一さんもまた違った人生を送っていたのだろうと思うのです。
そしてそんな方を父に持つ、大屋隆司さんも。
長い長い年月を、自分の過ちや恐怖を抱えて生きていきてこられたとするならば、例え多くの方の命を奪った「桜花」を発案されたとしても、その罪は十分過ぎる償いに値するのかな、とおもいます。
無差別テロのニュースと重なって、命とか生きる意味だとかの重みをズーンと感じてしまうのでした。
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