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古河 太四郎(ふるかわ たしろう)盲聾学校創設者特集:ろうを生きるで

古河太四郎(ふるかわたしろう)氏の特集が、4月2日の「ろうを生きる」で放送されていました。

2016年4月1日エイプリルフール。

この日のGoogle Mailは、遊び心を通り越してシャレにならなかった様子で、謝罪の広告が出ていました。

そんなGoogleのトップ画面が、昨年の3月27日には手話のイラストが登場していたのをご存知でしたか?

それは、明治時代に考案された指文字と現代の指文字(手話のようなもの)が交互に出てくるもので、この動画、障害児教育の先駆者古河太四郎(ふるかわたしろう)氏の、生誕170年を記念して表示されたものだったのです。

 

ここでは盲聾学校創設者の古河 太四郎(ふるかわ たしろう)氏について調べてみました。

古河 太四郎(ふるかわ たしろう)氏とは?

名前:古河 太四郎(ふるかわ たしろう)*姓は古川とも

  • 生年月日:1845年3月27日(弘化2年2月20日) - 1907年(明治40年)12月26日没
  • 生まれ:京都

この町にあった著名な寺子屋「白景堂」の四男として誕生

日本の教育者。

  • 京都盲唖院(後の京都府立盲学校・京都府立聾学校)を創設
  • 京都の鷹峯(たかがみね)・紅葉谷庭園の前身である灌漑池(かんがい=ため池)をつくった。
  • 彼の没後30年に当たる1937年にはヘレン・ケラーが、彼の創設した聾唖学校を訪問している

障害児教育を志すきっかけ

利発だった古河太四郎は12歳にして白景堂の師匠となります。

そして明治2年、24歳のときに京都府が設立した小学校の教師に任命。

しかし、翌年人生を左右する1つの大きな事件に巻き込まれてしまうのです。

なんと懲役の申渡状。

その内容とは、古河太四郎がため池を作る工事の許可証を偽造したというもので、不届きにつき2年の刑を命じると書かれたものでした。

古河太四郎は教師の身でありながら、持ち前の正義感から、水不足で悩む農民を救おうと、ため池の開発に乗り出したのですが、その手続きに不備があったとして罪に問われたのです。

しかし、この獄中での経験が、障害児教育を志すきっかけになったと考えられています。

それは、

獄中の古河太四郎が窓越しにみた外の子供たち。

地域のろうの子どもたちがいじめられている姿でした。

聞こえない子どもたちが虐げられている様子を見て憤った古河太四郎は、教師としての立場から次のように書き記しています。

「ろう者は教育を受けられない不幸を背負っている。
それは教育をしない者の罪でもある。」

と。

引用:http://www.nhk.or.jp/heart-net/

学ぶ機会を保障してあげなければ、この人たちにとっては人生は決して希望が見えてこない。

それが分かっていて教育をしないということは、しない側の罪ではないかと自分の姿を見つめなおしたことがきっかけになったそうです。

障害児教育の開始

刑を終え釈放された古河太四郎氏は障害児教育にまい進していきます。

明治11年日本で初めて聴覚・視覚障害児のための学校、京都盲唖院(きょうともうあいん)を創設。

現在の京都府立聾(ろう)学校と盲学校です。

ここでは、五十音を教えるために、指の形でカタカナの字を作って、「イ」は左手で出すと「イ」という風になる。

「ハ」はこの形というように五十音全部を、寝食忘れてご飯やお風呂のときも、トイレに入っているときも考えて、苦労されながら完成させたようです。

その後には、手話を使った教育に加え、発音の指導も行いました。

私たちが声を出すときには、息を吐いて声を出しますが、聞こえない子供たちは、息を吐いて声を出すという要領が分からない。

もっとすごいのが、爪で歯を示しながら、親指で舌の位置を示しているもの。

普通 口は開けたら歯まで見えても、舌の位置までは見えないので、聞こえない子供たちは舌なんか気がつかない。

口の形だけをまねしても、声になり難いのは舌の位置が関係しているからなのです。

息遣いと舌の、その両方のバランスで声になっている仕組みを意識して指導なさったようです。

さらに遊びのなかから言葉を覚えることができるような、独創的な教材も作りました。

古河太四郎氏の教育精神

さまざまな方法で教育を試みた古河太四郎のその精神をつづった文章が、日本最初の障害児指導書の草稿、その中で、「教育は恕(じょ)の一字にあり」と書かれています。

引用:http://www.nhk.or.jp/heart-net/

「恕」とは「思いやり」

ここに書かれている言葉にも胸がジーンとつまります。

聞こえない、ものが言えないということは、それだけでもつらい事だろうと誰もが思うけれども、本人や両親、兄弟においてはどれほどの悲しみであろうか、
その事をしっかりと理解して教師たる者は教育をしなければならない

と書かれているそうです。

苦労 と転機そして現在へ

古河太四郎氏の指導は評判を呼びます。

しかし京都盲唖院の経営は順調ではありませんでした。

不景気により寄付金が激減。

生徒数は147人に増え、経費が財政を圧迫するようになりました。

お金持ちの子だけじゃなくて、苦しい立場の子には、学費の免除をしたり貸し付けをしたりと配慮をしていたのですが、147名というのは、非常に大きな数で、それが経営を圧迫することになっていったのです。

自分自身の持っていた書籍を売却したり、人に借金をして補てんしたりもしますが、どうにも立ちゆかなくなった結果、古河太四郎氏は経営に失敗した責任を問われ辞職。

教育の現場から姿を消してしまいます。

ところが、9年後に転機が訪れます。

それは電話の発明者、グラハム・ベルとの対面でした。

聴覚障害者の母親に育てられたベルは、聞こえない子どもへの教育についても熱心に研究していました。

来日して盲唖院を訪問したベルは、我が米国ならば相当の待遇を与えるものを、世の人が放っておく不遇に大変驚きます。

ベルから称賛を受けた古河太四郎氏のことが、新聞に掲載されたのをきっかけに、再び活躍することになりました。

その後、五代五兵衛という人が経営 財政は全部自分が引き受けるから、是非、古河太四郎に教育を思いっきりやってほしいと依頼。

自分達が作ろうと思っている学校の院長に来てくれるよう招へいします。

その気持ちをうけて、で古河太四郎氏はもう一度やってみようと思い、大阪の盲唖院の院長に。

そして明治39年、古河は政府に建議書を提出。

盲唖教育の義務化を主張。

その準備のために学校を全国に作るよう求めたのです。

これがきっかけとなり、ろう学校と盲学校が整備されていきました。

このときに整備された京都盲唖院が、現在の
・京都府立盲学校
・京都府立聾学校

現在の京都府立盲学校は、
幼児期から高等部までの学部や課程を置き、普通教育、自立活動、職業科などを系統的に実施。

高等部の音楽科、専攻科の普通科・研究部理療科には他府県からの受験も認められており、視覚障害と他の障害を併せ有する生徒の重複教育も行っています。

理療科を中心に中途失明者の社会復帰にも役立とうと努めていて、 近年は、通常の学校や学級などに在籍する視覚障害児童・生徒のニーズに応える『視援教育相談室』などの取組も展開しています。

現在の京都府立聾学校では

京都府南部(京都市を含む)在住の聴覚障害を抱える児童・生徒が主に学んでいて、北部地域には舞鶴市に「舞鶴分校」が設置されています。

まとめと感想

私が子供の頃の先生の立場は、聖職者でした。

学校で先生のおっしゃることは絶対だったし、怒られたことなんかを親に言おうものなら、親からもまたそれ以上に怒られていた時代です。

でも、今の先生は、生徒との距離感がグンと近いものになっています。

電話の発明者、グラハム・ベルが、古河太四郎氏の不遇に驚いたように、先生や医療従事者の待遇の悪さが、それらの職業に従事する方の意識や世間の意識を下げているような気がしてなりません。

国会で、大泣きする議員の話題がニュース報道されるくらい、平和なのかもしれませんが・・・

東京盲ろう者友の会の理事を務める荒さんの記事もどうぞ。
↓↓↓
荒美有紀(あらみゆき)さん光と音をなくした27歳が生きるを伝えるに

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