金澤翔子さんというダウン症の書家をご存知ですか?
金澤翔子さんはETV特集「書家・金澤翔子30歳~娘と母 新たな旅立ち~」ほか、幾度となくテレビでも紹介され、世界の人々に力と希望を与え続けて、2012年に放送されたNHK大河ドラマ「平清盛」の題字も書いていらっしゃる方です。
ここでは書道家の金澤翔子(ダウン症の書家)さんについて、記念館の場所やETVで放送されたお父様の夢についてまとめています。
金澤翔子美術館
- 住所:〒972-0163 福島県いわき市遠野町根岸字横道71番地
- TEL:0246-89-2766
- FAX:0246-89-2044
- 開館時間: 午前10時~午後4時(入館 午後3時30分まで)
- 休館日 :毎週水曜日(ただし祝日の場合はその翌日)
- 年末・年始(12月26日~1月1日)
この美術館が日本で初めての金澤翔子の常設館です。
観覧料
- 個人:800円
- 団体(一人につき): 600円
※ 小学生未満の方は無料
※ 障がい者の方は400円でご観覧いただけます。入館の際に障がい者手帳をご提示ください。
※ 団体は20名以上 - URL:http://kanazawa-shoko.jp/museum/index.php
金澤翔子さんプロフィールと経歴
- 名前:金澤翔子
- 生年月日:1985年6月12日
- 生まれ:東京都目黒区にて誕生
- 5歳で母の泰子さんから書道の師事を受け始める
- 2005年 銀座書廊で初の個展開催 ← この個展がお父様の夢だった個展です
- 2009年 鎌倉の建長寺、京都の建仁寺で個展開催 (2009年以降毎年開催)
- 2011年 奈良東大寺 奉納と個展
- 福島に「金澤翔子美術館」開設
- 2012年 NHK大河ドラマ 「平清盛」揮毫
- 2013年 「銀座金澤翔子美術館」開設
- 平泉中尊寺 奉納と個展
- 熊野大社 厳島神社で奉納・揮毫
母の苦悩
結婚する前は、能や書道を嗜んできたお母様の泰子さん。
会社を経営する金澤 裕さんと出逢い、結婚。
3度の流産を経て、ようやく授かった子供が翔子さんでしたが、病院で出産してから一月が経過。
他のお母さんたちが子供と一緒に退院していくのに、生まれてからずっと検査ばかり続き、自分はまだ一度も子供の顔を見ていない。
泰子さんは出産から一月も経っているのに、わが子を抱くことすら出来ません。
「他の子共は退院していくのに、どうして私だけ子供を抱くことも出来ないんですか?先生、本当のことを教えてください。」
泰子さんは、先生に問い詰めたそうです。
そして先生から返ってきた言葉は、
「お子さんは、ダウン症です。おそらく知能はなく、一生寝たきりで過ごすことになるでしょう」
と。
当時も今も、ダウン症について専門家でも間違った認識を持つ方がいらしゃると聞きますが、知能が無い、一生寝たきりなどということは決してありません。
*ダウン症とは、人の遺伝子の遺伝子異常。
特徴として筋肉の発達や知的障害が多くみられます。
しかし、泰子さんは病院で先生に言われた言葉を鵜のみにして、それから長い年月、苦しむこととなったそうです。
また、生まれて間もなく翔子さんは敗血症になります。
交換輸血が必要となった時、「お子さんは敗血症で交換輸血が必要ですが、ダウン症です。どうしますか?」と。
その時、父親である裕さんは迷わずこう答えました。
「主よ、私はあなたの挑戦を受け入れます」
家で毎日泣きながら過ごす母の泰子さん。
当時は、仕事で帰りが遅い夫が帰宅して、翔子さんを満面の笑みで抱いている姿さえ憎らしく思えのだそうです。
そんな時に、優しく微笑みながら、「ダウン症なんて関係ない。精一杯愛してやろう。」と言ったご主人のその言葉に、心が救われたと。
それから、翔子さんに変化が見え始めます。
知能が芽生え始めたのです。
普通の子と比べると明らかにそのスピードこそ遅かったけれど、「一生知能は無い」と言われた言葉が間違っていたと気付き始めました。
その出来事は、翔子さんにとっても泰子さんにとっても、大きな一歩。
わずかな希望の光が射し込んだ瞬間でした。
やがて翔子さんが5歳になったとき、泰子さんは、かつて自分が長年嗜んできた書道の教室を開きます。
幼稚園や保育園を断られ続けてきた翔子さんに、他の子供たちと触れ合う機会をつくってあげたかったのです。
「翔子に友達を作らせてあげたい」
近所の子供たちと一緒に書道教室で習ったときのことを翔子さんはもちろん今でも覚えています。
そして泰子さんは、さらなる挑戦を決意します。
それは、普通小学校への入学です。
普通小学校に入学が認められて2年目のこと。
運動会である出来事がありました。
徒競走でゴールの手前で突然立ちすくむ翔子さんは、「競技で迷惑をかけてしまった・・・」
そんなことが頭によぎった母泰子さんでしたが、この後の翔子さんが驚くことをします。
後ろを走っていた友達が転んでいたのですが、翔子さんはゴール直前から引き返しその友達のところへ行って「だいじょうぶ?」と声をかけたのです。
他の子供たちと、競い合わない翔子さんでしたが、そんな翔子さんの性格が周囲の子供たち、そしてクラス全体を明るくしていきます。
気がついたとき、いつのまにかクラス全員が翔子さんの友達になっていたのでした。
かつて医者には、「知能はなく、一生寝たきり」と言われた翔子さんですが、実際はこうして普通の子供たちと元気に、楽しく学校に通っているのです。
翔子さんが4年生のとき、母泰子さんは学校に呼ばれます。
そして学校から言われた言葉、それは身障者学級のある他校への転校の勧めでした。
小学校高学年になると、進学で中学受験を控える時期です。
それまでは、問題とされなかった授業の内容が、進学を控える時期に親御さんたちに懸念されはじめたのです。
小学校から見放された気持ちになった翔子さん親子は、それから懸命に書に没頭します。
しかし、文字のバランスというものが分からない翔子さん。
最初は、乱雑で文字とも言えないような風にしか書けなかった翔子さんですが、二人の懸命の努力で書としての文字が書けるようになっていきました。
翔子さんの将来に託した父、裕さんの夢
ある日、父の裕さんはこう言います。
「翔子が20歳になったら、パーティーをしないか? ダウン症の翔子がここまで立派に成長しましたっていう報告会をしたいんだ。」
「そして翔子に書を教えてきたお前との親子の個展をやろう。」
そんな夢を翔子さんの将来に託した父、裕さん。
しかし、裕さんは、成長した翔子さんの姿を見ることなく、52歳でお亡くなりになられます。
それから月日がたって翔子さん20歳。
亡きお父様の夢がかなったのが、2005年12月の翔子さんの銀座書廊で初の個展でした。
現在の翔子さん
金澤翔子さんは2015年3月に、ニューヨーク国連本部で「世界ダウン症の日」日本代表として招待されています。
その時の動画がこちらです。
いま、泰子さんと翔子さんの書道教室には、たくさんの子供たちが習いに通っています。
「どんな子供でも、うけいれる」
その教室には、知的障害を持つお子さんも通われています。
そして、初の個展から10年。
30歳となった翔子さんは、書家として成長したい一心で、一緒に暮らしてきた母・泰子さんに一人暮らしを宣言します。
泰子さんも自立を応援するため懸命に部屋探しを始めます。
さらに、重さ25キロの大筆に初めて挑む翔子さん。
また、親子の新たらしい10年がはじまります。
金澤翔子さんの作品集「魂の書」
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まとめ
ここでは、書家の書道家の金澤翔子(ダウン症の書家)さんについて、記念館の場所やETVで放送されたお父様の夢について、まとめています。
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